【 《違和感》の正体 】
#自己分析 #つぶやき
#興味ない方は読み飛ばしください。

「違和感」を感じたときは、
なぜ、「違和感」を感じるのか?
なぜ、「違和感」を感じるのか?
を探ってみることにしている。
自分の完了されてなかった
過去の体験が発見できることもあるし、
過去の体験が発見できることもあるし、
自分の大事にしている感性を発見し、
自分が誰かを、言語化できるチャンスとなるから。
自分が誰かを、言語化できるチャンスとなるから。
「好きな人とだけ付き合う」
っていうフレーズに、前から反応していて
なぜか違和感を感じるのはなぜだろう、と思っていた。
「それができたら理想だよね!」
「そんなうまい話ないよね!」
とかいう話ではなくて、
私は、「好きかどうか」という至極、個人的な主観の思考をもとに、人をジャッジするように捉えられるワードが好きじゃないんだな、と。
「好き」ってそもそも何よ?
「嫌い」ってそもそも何よ?
心理や脳科学的には、この「考え」それ自体が、過去の再活性から来るものなので、
「好き」と思う心理にも、
「嫌い」と思ってしまう心理にも、
本当には、自分側に、
何かしらの過去の記憶が呼び覚まされて
その「感情」や「思考」を出している。
いま目の前の人にそれを体験した、というよりは、過去の体験が呼び覚まされているに過ぎないから、
人によっては、
「好き」とか「嫌い」という感情・思考だけを頼りに人をジャッジしてしまうと、
眼の前の人を、その人のそのままを受け取ることに失敗したり、
自分の勝手な、「こういう▲▲人は好き」とか「こういう〇〇な人は嫌い」という、だいたいにして、不明確な曖昧模糊として「なんとなく」な感覚や思い込みによって
もしかしたら、その人との作れるかもしれない人間関係を排除してしまいかねないと感じている。
事実、私は、昔、「ぶりっ子が嫌い」という勝手な自分の思い込みで、どっからどこまでが「ぶりっ子」の該当範囲なのか不明確な思い込みで、ずいぶんと、可愛らしい女性の方との交友を持つことを勝手に制限していたし、
「イケメンすぎるやつは努力しないでも手に入ってきた人生やからあかん」とかむちゃくちゃな理論で、「なんとなくで」関わらない男性を決めていたし、
結構、この「感情的な基準」での人のジャッジは、危険だ、と思っているんだな、と。
結局は、「好き」とか「嫌い」とかいう感情を、
人は「自己正当化の材料」にしてしまっているケースが多いんじゃないかと。
人は「自己正当化の材料」にしてしまっているケースが多いんじゃないかと。
私の事例が極端だったのだけど、何をもって「好き」としているか、「嫌い」としているかは、
親との関係から来ていたりとか、実は結構根深い、自分の過去をあぶり出すのである。
なので、「好き」とか「嫌い」という感情が出たときほど、「それはなぜ?」と自分に問いただすと、
「嫌い」と思っていた人が「好き」に見えたり、その逆もあったり、
悲しいかな、人間の感覚なんて、結構、ころっと変わったりする。
あとは、どうしても「好き嫌い」ジャッジのワーディングに、「他を否定する」要素が感じられてしまう、という個人的な見解があるんだなーと。
ただ、「付き合う人を決める」「嫌われてもいい人を決める」という言葉は的を得ていると思っていて、
それは明確な基準だったりを設定していて、自分の理念や創り出したい世界観に賛同できないなら、来ないでほしい、関わらないでほしい、ということでもあるから、絶対に必要なもの。
自分から人を選ぶというよりは、
「こういう世界を創ることを目指している、
こんな私です」
という自己表現に、インスパイアされる人だけが
周りに集まっていく、残っていく、というイメージで
いる方が自然体な表現に感じるんだよな。何も否定せず、何も変えようとせず。
実際、何も悪くないし、何も正しくもない。
いる方が自然体な表現に感じるんだよな。何も否定せず、何も変えようとせず。
実際、何も悪くないし、何も正しくもない。
そうすると、自然と自分にとって必要な人だけが
集まっていくんじゃないかな。好きとか嫌いとか意識せず
集まっていくんじゃないかな。好きとか嫌いとか意識せず
本当に「繋がりたい!」と思う人で溢れる。
うん。書いたらスッキリした!
違和感の正体がわかった!笑
以上、なが~いつぶやきでした笑